物語にみるサイコ

先日たまたまデスノートをインターネットで見ていて、死神という荒唐無稽な設定があるわりに、いい感じのサスペンスだな~と思いました。このデスノートの犯人は、エリートサイコ+死神という、一般市民にとってはいかんともしがたい設定です。この犯人は高校生にしては、すごい精神力と頭脳を持っています。全世界の警察の捜査対象にも関わらず、顔色を変えたりしませんし、その後は捜査本部を支配下に置く、アメリカ大統領に不干渉を承諾させるなど卓越した政治力を発揮しています。これは物語設定が特定登場人物に負荷をかけているとみることもでき、これが一定値を超えると見ている側は、だんだんと白けてしまうことがあります。デスノートの犯人も少しすごすぎる感はありますが、それでも全体的にとても緊迫感があって面白かったです。

映画や物語にサイコは頻出しており、残念なサイコもいればスーパーサイコもいますが、私はいくつかの特徴をつかみました。

「物語上の負荷を担わせやすい」

「なぜならサイコだから」というそれだけの理由で、作中世界のひずみはサイコに集中することがあります。人格や能力によってそのひずみ・不自然さが解消されます。物語上不可欠なリソースを追加しやすい意味もあり、サイコ犯罪者が登場することで、人格が足りなければ2つ3つ追加することも可能になると思われるようです。異常者、サイコということで、多少一般人と違う行動をさせやすいのでしょうが、それも限度があります。

「眠らない」

不眠不休で犯罪者の名前を書き込んだり、不眠不休で多重人格を演じたりと、サイコは眠りません。これがサイコたる必要条件のようです。眠らなければならない人はサイコになるのはあきらめて、10時間眠ると言われたアインシュタインを目指しましょう。私も5時間は眠りたいし、翌日の予定がなければ8時間は眠りたいので、サイコにはなれません。

事例集

スパイダーのカップルのような自称黒幕の場合には、公務員とマフィアのボスの両立を主張。捜査班を呆れさせました。(負荷の増大)

なんとかいうドラマの弁護士:わずか一か月かそこらの間に15人を殺したと主張しつつ、弁護士の仕事をしていたとも主張。療養生活が必要と即断されました。(負荷の増大)

ボーンコレクターの犯人:かなりレベルの高い犯人でした。主人公の凄腕捜査官へのメッセージの第一段階としての殺人を、解読されるまで飽きることなく繰り返すという本物ぶりを見せました。しかしそもそも主人公は引退しており、メッセージは届くはずもなく、結果としてメッセージとしてしか意味のない犠牲者が何人も生まれました。結果的に解読に失敗していた脇役の刑事さんは、ラスト手前で見せ場もなく犯人にやられて死亡。これが因果応報なのか、と思うと背筋が凍りました。「メッセージなら手紙に書け」と思わせるところは、本物感の漂うサイコでした。(動機面で負荷がかかっており、手紙で書けばよい恨み言を死体を通して伝達しようという行動を選択せしめることになりました)

パーフェクトストレンジャー:ハリー・ベリーは作り手の犠牲になっただけで、決して悪くなかったというのが、私の感想であり世間の感想でもあります。記憶は欠落、話は脱線して、本題に戻ったときには映画は時間切れ終了で犯行の全貌は謎のままに終わりました。これはこれでサイコパスな映画ではあると思いました。チャットなんかしてないで時間を有効に使うべきだと思わせる映画でした。(物語のサスペンスのために、”物語る”という行為を放棄してしまいました。説明を放棄することで、主人公=犯人のブラックボックス的能力を増大させましたが、これは得策とはいえません。視聴者はまず目の前の物語を分かりたいものですし、そのうえで驚かされたいからです。)

デスノート:犯人の能力の肥大化はありましたが、それもあまり違和感を感じさせるほどではありませんでした。物語自体は手が抜かれていないので、死神出現という異常な状況や、犯人のやや肥大した能力も、理解可能なものになっているのです。その異常な状況が犯人の目くらましになっている(死神がいるとはだれも思わないので殺人ノートがあるということさえ信じられない)というのは、まあそうかもしれないと思いました。ただ、よーく考えてみると犯人は少し働きすぎかもなとは思います。

その他(

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