月別アーカイブ: 2013年11月

11/22

竜王戦第4局

ryuuou45有名な矢倉定跡に入りました。先手45手目は分岐点。65歩で先手がやや指しやすいような評判ですが、本局は25桂。以前はこれで攻めきれるかどうか、ぎりぎりと言われていました。次の後手45歩からは、あまりにも有名な順が待っています。

ryuuou68もう1つの分岐点は後手68手目。44歩と馬を支える手が多かったそうですが、本局は44馬。前例は一局だけ。ここで、多くの前例から離れて、力戦になりました。以下は難解な戦いでしたが、解説の羽生三冠によると「少しだけ後手がよさそう」ということ。

45手目のさらに前には、後手が微妙に先手の仕掛けを誘うような手順を選んでいたのも面白かったです。先手としては、矢倉の定跡の真ん中を歩いていれば良くなるはずみたいなある種の信念みたいなものがありますので、誘いに乗らなくてもいいのですが、将棋には「誘われたら乗る」という不文律があり、「誘いには乗って勝ち(緩手を咎める=勝ち)」という信念めいたものがこれまたあります。本局の場合は、はっきりした緩手とまではいかないので、先手としては敢えて誘いに乗らなかったということでしょう。

 

11/11

先日、日本書籍出版協会から、登録確認の書類が届きました。日常のことに追われて、どんなペースでつくっているのか忘れそうになりますが思い出しました。

最近読んだ本の中で、認識論と存在論を論じているものがありました。私は考える派ですか、考える私がいる派ですか、みたいな話です。存在論は昔からあったはずですが、近代では新たに課題として意識されてきた印象があります。

しかし、存在論の知識というものは共有が困難として知られる分野です。なので、しばしば軽視されます。しかし、認識論だけやるのは、「口が内蔵を退けて”身体を養うのは自分だ”」と言っているようなものになります。存在なしには考える主体もまたないわけです。内容的には個人的修養に近いものだとしても、分野の切り出しは客観的に行われているので、現象学的はやはり意義のある取り組みだと思います。

完璧な理論がコミュニケーションの場においては、うまく伝わらないといった点を重視すると、何か社会学のようになりますが、有名なのはウィトゲンシュタイン前期+後期です。適切であり、論理哲学を完結させたはずの前期の理論は本人にとっては、世間・同僚に十分に浸透していないという認識だったらしく、コミュニケーション場における攪乱や、そうした場自身のルール生成的な働きを後期では強調しました。

「粘り強く普及・啓発すればいいだろう」という声も聞こえますが、コミュニケーション場の特有な働きが思考対象となったわけで、「理論は自分がつくる、あとはまかせる」ではすまないことがあるということでしょう。実際後者のようなルール生成的な働きは、真正な科学理論をして、コミュニケーション場の末端において、似ても似つかない姿にゆがめられ詐欺商売に加担させることさえあるという意味では座視できないものがあるでしょう。対処療法だけではなく、間接的に見えてもオープンな社会に向けての諸々の取りくみが必要になります。むしろそちらのほうが大事かなと思います。

個々人の心は、しかしながらある程度の固有性が尊重されるべきで、野心・願望・夢・心情といったものを逐一全世界に発表する必要はないものだと思います。そこで存在論の出番というわけで、世の中にはもとより共有困難であるが大事な分野が主体の側に存在するということを知っておくことは無駄にはならないはずです。多くの人はそういうことを誰にでも明かすのではなくて選んでいるでしょうが、「オープンだから」といってやたらと大勢に向かって心情を吐露したりするのは非常に危険なことだと私は思っています(本来そういうふうにはなっていないのだから)。主張は外に出したほうがいいが、心情はやたらと表に出すものではないです。

存在論と認識論はほぼ主体に関することで1次的な素材は自身の経験・体験となり、コミュニケーション場が持ち出されてくると、主たる対象は、言葉や情報というものに移ります。

どれが欠けても成り立たないので、どれを読んでも面白いと思います。コミュニケーション場について考察する場合、逆説的なことではありますが、簡単なものでいいので、正しい理論、正しい命題を例として1つおさえておいたり、存在論だとか認識論だとかを少し頭に流し込んでおいてから考え始めるのがよいと思います。コミュニケーション場で攪乱されうるからといって、相対性理論がどこそこの居酒屋では否定され、それが妥当などということはありません。正しいとか適切な理論は、そこで保証されている意味で正しく適切であるのです(特に論理とか数といった事柄自体が否定されることは不可能なので攪乱にも限度がある)。特にこのことが重要なのは、自身の心といった固有な事柄がコミュニケーション場で否定されるなんてことは、初めからあり得ないということを知るためです。伝わらないというのと、存在しないとして否定されるのとは、雲泥の差です。気持ちはなかなか伝わらないでしょうが、それによって否定されるものは何もありません。

コミュニケーション場だけを重視すると起きるのが、対話を偏重してしまうことで、時には固有な時間を持って充電しなければならないときもあるということを忘れがちになります。

11/8

将棋竜王戦第3局は再び矢倉後手急戦。そして互角の形勢ではあったようですが、結果は後手が勝利。仕掛けて互角なら後手としては十分な成果といえます。

矢倉戦では後手の苦労が絶えなかったわけですが、以前は「まともに組み合うと先手有利なので急戦で仕掛けてみる」→「ものの、先手にしっかり受け止められてじり貧になる」→「やはり組み合って持久戦で最善の受けの形で待ち、チャンスを待つ」→「ものの、攻められるばかりで苦しそう」。という流れがあり、急戦矢倉は無理かと思っていたのですが、このシリーズでそのイメージを覆しました。

矢倉急戦には、中飛車、右四間飛車、中原流、米長流、原始棒銀と多彩なバリエーションがあるので、今シリーズを受けて、2手目に84歩と指す居飛車党が復活するかもしれないと思います。

私は矢倉後手ではほとんど持久戦を選びます。矢倉の先手で攻めるのも実は結構大変なんで、後手をもったらその大変な形を選ぶわけです。しかし、勝てるんだったら急戦も当然指したくなりますね。

11/3 電王トーナメント

ソフトウェアが同じPCを使って競う将棋電王トーナメントを観戦しました。

来年3月にプロ棋士と戦うのはponanza,ツツカナ、YSS、やねうら王とあと1つは敗者復活組だそうです。

YSSは昔からあるプログラムで、私もそれが入っているAI将棋を指したことがあったと思います。なつかしいです。ソフトにも個性があり、柿木や金沢将棋は、重厚で堅い手ごたえがありました。柔軟で切れ味を感じさせたのは、東大将棋や激指です。AIもやや堅いほうだったように記憶してます。bonanzaは攻め好きで、仕掛けが早いのですが、指し手自体は堅い感じでした。中の設定は知りませんが、わざと仕掛けさせるような工夫は激指に一番多くあるように思います。それだけその後の力比べに自信があるのか、または市販ソフトですし、将棋をつくっていくような配慮もあるのかも、と想像します。堅いとか柔らかいは、危険許容度に関わるのかもしれません。高ければ柔らかい、低ければ堅い。人間側として面白いのは、危険許容度が高い相手です。勝ちにこだわるなら、たくさん読んで一番評価高い手を選ぶ、それで千日手でも構わないくらいの方針を取るのでしょう。強くて面白い勝ち方をするなら、数手、10数手先の組み立てについて何らかの方針を立てる必要がありそうです。そういう将棋は、観戦者が指し手の文脈をいずれ理解できるので、面白い物語を見るようで楽しいのです。その方針のつくりかたが棋理にかなっていれば、おそらくは最善手を連続させるだけのソフトより強くなるんじゃないかと思います。

ツツカナが普通の居飛車対振り飛車で勝っていましたが、人間的で落ち着いた差し回しをしていました。評価の高い手を選んでいるのでしょうが、それが人間的にも「いい手」に見えます。ponanzaはソフト同士の戦いでも非常に強い勝ち方をしています。プロ棋士にとっても強敵になりそうです。