11/21

Structural Deformity

消費税アップ延期についての記事です。書いている人は、延期は妥当と述べています。8%への増税にも反対という人でしたが、経済学的にいうとそういうことになるのかもしれません。私は延期に賛成です。しかしいずれ消費税は上がることになるでしょう。それすらできず景気を低迷させ、財政の改革もしなかった状態を思うと、今は幾分しっかりした論点があり、まともな政策が実施されていると思います。

世界的に広がっている言葉が、構造改革、経済的環境の本質的変化からくる構造的不況、といった言葉ですが、注意深くそういう言葉を発する人が、いかなる経済的施策を唱えているかを眺めるなら、単なる放任主義(消極的な人間なら無為無策)だということが分かります。言い換えれば、自分は何もしないが、警鐘を鳴らす深遠な人物だと思われたい、ということです。

政治は対処、実施の連続体です。それこそが国民の福祉に影響を与えます。失敗を恐れないのもそうですが、成功や成功の連続をもまた恐れてはいけません。いろいろな海外の記事を読みますが、まるで成功することを恐れているかのようです。しかし評論家的な言論の趨勢など、人々の生活には関係がないのです。彼らの体面など気にする必要はありません。正しい評論をすれば、それは保たれることでしょう。成功や失敗しか知らない人間は危険です。そして成功を知らない人間は災いです。成功するためには、実施し、また実施することだと、恐らく多くの人が言ってきたとは思いますが、まさにその通りで、実施し、また実施することが成功につながるのだと思います。

人には持ち場が必要で、自分の人格を集合無意識に委ねるのは、自身にとって有害な結果をもたらす。

時折思いますが、評論のたぐいというのは、全人格をそこに投入するようなことではないと思います。誰しもが、論評めいたことはするけれども、それとは別の仕事や使命のようなものがあるのではないか。消化不良なありさまで、成功を恐れ、失敗を恐れているような文章を読むと、この書き手に必要なのは、自身にあるはずの持ち場を見つけなおすことかもしれないな、などと思います。というのも自分の持ち場を意識できないと、それをメディアを介した情報群に置いてしまうことがあるからです。そうすると、そこに働きかけることが第一の目的となってしまいます。メディア自体はその名前の通り、自分でものをつくるわけではないですから、現実に現れる結果は恐れるが、論調を操作して人々の精神に影響は与えたいといった傾向に徐々に染まっていきます。しまいには、現実に影響を与える人間を嫌悪するようになります。しかしながら、その嫌悪感は間違った嫌悪感だと言うことができます。自分にここだという持ち場ができると、そのような考え方から離れていくものだからです。

相当以前には、評論というのはある分野の一級人士だけが行いました。つまり自分の持ち場を持っている人の中で自他ともに認めるような人が書くものでした。ただ、自分の持ち場を自覚している限りにおいて、ある分野のトップである必要ありません。ここにおいて私は生きるという持ち場が誰にも必要だと感じます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

This blog is kept spam free by WP-SpamFree.