4/10

昨日は、とある記者会見が大勢の耳目を集めました。私でも気づくくらいなので、かなりの注目度だったようです。このSTAP細胞のことは、ニュースの見出しでしか知らず、「発見なのか、そうなのか」というぐらいで、どんな人が何をしたかも知らないでいました。3月下旬くらいになって、昨日のような騒ぎがあまりに聞こえてくるので、どんな発見なのかと思って記事を拾い読みしました。

山中先生

SYNODOS

ノーベル賞のおかげというわけじゃないと思いたいのですが、品格感じる文章です。どちらも安定した考察なので、安心して読むことができ、参考になります。わけわからない擁護する人もいたり、理研さえ攻撃できればそれでいいみたいな人もいましたが、私は、理研はこれを機会にもっと充実した研究機関になってほしいと思います。こうした当たり前の見解を表明することを怠けると、総じて場は荒れていきます。

過失の性質は、研究者の未熟さや大学院の指導に帰することはできないものです。「学生なら論文の書き方くらい知っておけ」というのが私のころのごろつき(まあこれは冗談)教授の言い分で、「言い分は聞いたし、対応はするが、お前はあとでつぶすぞ」というのが学生側の言い分でした(大意要約したもの)。教える仕組みがないのに、知っておくべきことを後出し的に要求するという姿勢には若干問題も感じますが、元データを毀損しないだとか、引用作法だとかは、大半の大学とひょっとすると高校あたりでも「知っておくべきこと」の範囲だと思います。

ところで私の言いたいことは、記者会見がどうこうではなく、よしんば30歳の博士が自らの未熟さを告白し、謙遜したからといって、若い人たちへの質的ハードルを下げるべきではないということです。若い人は質的要求には応えることができます。量的な要求は、避けられず限界を持ちます。学生たちの時間は無限にあるわけではなく、キャリアパスによってこなせるタスクの量は異なります。初めから修士に行くつもりのない学生に過大な量的要求をするのは、多くの意味で無駄になりますが、質的要求は可能です。

例えば文系私大学生なら、多言語でジャーナルを読み、レポートを出す。この程度をゴールに設定することができそうですし、あるいはもう少し高度な、外語による論文作成くらい求めてもよいのかもしれないです。案外やれちゃうものだというのを私は他人の例でも自分自身についても見ています。プレゼンやディベートを加えるのもいいと思いますが、学問的にはそれらは本質的ではないので、2年生になったらそれ以降は、論文1本書くようにぐらいの質的な要求をするとよいと思います。学問的な産出物をつくるというのは、やはり得るものはとても大きいです。博士でもミスするんだから、論文なんて書かせられないと思う人がいたらそれは大きな間違いです! 若い人は求めさえすれば応える力を持っています。書かないと分かるわけがないことはたくさんありますので、ちょっと難しいかなくらいのクォリティを求めて欲しいと思います。対して、いたずらに量を課すのは、単なる嫌がらせになってしまいかねませんので、修士や博士課程を目指すようなところ以外では、すべきではないと思います。学生が自ら望む場合は別でしょうが。たとえば、単位が欲しいので物量レポートを出して、努力を評価してもらいたいといった場合ですが、うーむという気がします。たしかにそんなことをしなければならないことも後々出てはきそうですか。大量な調査をし報告する能力も確かに必要ですかね。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

This blog is kept spam free by WP-SpamFree.