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「転換する構図を見つけること」
経済というのは、物財サービスが次々に交換されることで成り立っている。お金は財に転換され、財は別の財に加工され、それでまたお金を得て、一部は消費にまわして一部はまた同じものを仕入れるのに使う。それぞれのプロセスにおいて、何らかの転換が生じている。
 運動エネルギーを熱に転換するだとか、熱を何かに転換するなど転換は、人間社会の進歩において重要な役割を果たしている。
 言い換えれば、転換が難しいプランには改善の余地があるということである。鉛筆を削る速度を上げるなどして短縮したわずか数分間の作業時間を振り向けられるような業務がない場合などがそうである。その種の節約、効率化は、振り向けられるような経営資源が存在するときには、効果も上がり、やる気も増す。言い換えれば、それを見つけることが、効率化を打ち出すよい機会ということになる。
 あまり言いたくはないことだが、原発をあわてて停止していても、転換できるような手段(資源)はなく、無理をして電力供給量の確保の策を講じているのが現状である。変なときばかり頑張ろうとせず、動く発電機を動かしながら、新しい電力供給の形を探ればよい。
 時折目にするのが「見えない原発コスト理論」だが、気象や災害予測技術の向上、事故時のマクロな対策(外部電源搬入や堤防を少し強化するなど)、使用年数の制限、まさに別の電力供給方法の開発など、有用な投資により、それらのコストは削減されうるものである。
 しかしながら、目的も手段もあやふやなまま原発を停止して、いたずらに電力料金をつりあげれば、その期間の国民の余計な支出はかえって来ない。これは不可逆な損失であり、単なる景気阻害の要因である。景気が阻害されれば、わざわざ風力発電を応援したいと思ってもそんな金はないということになりかねない。よく考えてもらいたいものだ。
 前者の投資(動く原発を動かしつつ、防災・新電力・資源確保に投資する)は、有用で転換可能な側面を持っているが、後者のような無計画な原発停止措置は、受け皿もなく転換困難で、それゆえに必要もない我慢を国民が強いられるということになる。
 さらにいえば、近隣諸国からのテロ攻撃が心配というなら、それは原発を停止しても、そのテロ集団はこの国に同等の損害を与えるべく攻撃を計画するだろうから、テロ対策自体はいずれにしても必要であり、原発の稼働には関係がない。それほど国防に関心があるとは思えない人たちが、時々原発テロを憂うようなことを言う。その人たちが「原発がなくなればテロ対策が不必要になる」と考えているのなら、その人は国防には不向きな人である(「核攻撃」は心配ではないのだろうか?)。もっと本気で、この国の安全を心配してはもらえないものだろうか。つまりは、もともと本気で心配しているわけではないのではないだろうか? まあどちらでもよいだろう。この国で政治に関わる人には、国民の安全を守り、豊かな暮らしを実現してもらいたい。原発のリスクは長期的にしか軽減できない。そこから外れては電力供給の議論はできないと思う。

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