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将棋電王戦の記者発表を見ました。有明コロシアムで将棋をやるそうです。格闘技風のPVも今まで見たことがないようなもので面白いし、見た目が地味な将棋でこれだけ盛り上がれるのはたいしたものです。将棋界の真面目さが、演出の得意なネット系の会社とうまくかみあったのかなと考えたりしました。落語も、少し前から新たな成長局面をむかえている感がありますが、それ以前には時代とのずれを感じさせ、模索・試行錯誤・停滞の時期があったように思います。しかし、力のある話し手を育てる・輩出するという強みを失うことがなかったので、ついに時代の波をつかんだんじゃないかと思います。いわゆる「演出論」みたいなものだけで、中身のないものを持ち上げて成功するのは、本当にレアケースだと思うので、事例には挙げたくはありません。それにそういうタイプのものは、消費者側が負担をすることになります。落語は楽しめもすれば、些細なものとはいえ教養にもつながるし、文学・語学的素養を増すような効果も多少はあります。もちろん、聴くほうはそんなことを期待しているのではないですが、しっかりしたものが浸透してくるとその副次的な効果も期待できます。

「今はそんな時代じゃない」「今の子はそんなことしない」というフレーズは、常に流通していますが、決してそんなことはありません。思考にも生産者的な面と、加工・流通業者的側面、小売業者的側面がありますが、そういうフレーズは、出来上がったものを選んで誰か他人に向けて並べるという、小売的側面だけ使っているから出てくるものです。

考えたり、誰か別の人の考えを加工したり調べたり他の分野のものと照らし合わせたりという局面を疎かにすると、雑で投げやりな言葉が飛び交います。またそういうやり方は、自分自身に「つくる楽しみ」をもたらさないので、どうしても他人の反応ありきになってしまい、この言葉は受けるから使う、うけなくなったから使えない、もう時代じゃない、ということになります。

他者を哲学的テーマにするのは結構なことですが、思考するということにおける諸傾向がもたらす違いにも注意しないといけません。1・2・3と兼ね備えた6次産業的な思考であれば、内容があって他人にも聞かれるということなんでしょう。しかし、生産・加工局面を持たない思考においては、問題は他者ではなく、考え方のほうに問題があるのではないかと言えます。

こうして述べてくれば分かりますが、「ある言葉やフレーズ(特に長いこと通用してきた普通に考えてよい習慣や価値観)が時代でなくなる」のは考える側(または論者・話者)の姿勢に問題があることがあります。もちろんいうまでもなく、主張自体に矛盾があるだとか、非合理だとかいうのであれば、それは素材の問題です。

テーマとして他者というのは一定の重要性があると思いますが、意固地になって主体を見ないというのもあまり生産的ではありません。他人の反応ベースの満足だけを問題にする人間の場合のように、やっぱり話者自身に問題があるかもしれないということだってあるわけです。この例において困ったことは、話者自身は「他人から受けない」という形で問題を自身の外側、社会に見ているが、原因は社会自体に内在しているというよりは、どうやら話者自身が生産・加工を怠っていることにもあるのではないか、という点にあります。

このような場合、たとえばいまどきの子はおもちゃなんて喜ばないと、一度拒否されただけで言う人物がいたとして、喜んでいる子どもたちの姿を見せたり、アイディアをふくらませるプロセスを体験してもらい、考える喜びを知ってもらうみたいな対策が取られるのでしょうが、丁寧に対応するならそういうことなんでしょうが、なんとも面倒な話です。

つまらないジョークを拒否られた学者などは、時々切れて、日本社会はユーモアを解さないと宣言しますが、それも上述の例に入ります。お分かりでしょうが、そういう人たちは専門のことについては練り上げた考えをもっていますが、冗談についてはどっかから「仕入れた」ものが多いのです。考えるのが得意な属性の集団と思われていますが、時にはそういうこともあるわけです。

聖書では言葉をパン粉や種になぞらえてますが、こうして書いてきてみると、一見素朴なたとえではありますが、なかなか含蓄があるなと思います。よくこねれば、そしてよい環境に落ちれ(到達すれ)ば、その効果は飛躍的に増していくのです。

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