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先日、日本書籍出版協会から、登録確認の書類が届きました。日常のことに追われて、どんなペースでつくっているのか忘れそうになりますが思い出しました。

最近読んだ本の中で、認識論と存在論を論じているものがありました。私は考える派ですか、考える私がいる派ですか、みたいな話です。存在論は昔からあったはずですが、近代では新たに課題として意識されてきた印象があります。

しかし、存在論の知識というものは共有が困難として知られる分野です。なので、しばしば軽視されます。しかし、認識論だけやるのは、「口が内蔵を退けて”身体を養うのは自分だ”」と言っているようなものになります。存在なしには考える主体もまたないわけです。内容的には個人的修養に近いものだとしても、分野の切り出しは客観的に行われているので、現象学的はやはり意義のある取り組みだと思います。

完璧な理論がコミュニケーションの場においては、うまく伝わらないといった点を重視すると、何か社会学のようになりますが、有名なのはウィトゲンシュタイン前期+後期です。適切であり、論理哲学を完結させたはずの前期の理論は本人にとっては、世間・同僚に十分に浸透していないという認識だったらしく、コミュニケーション場における攪乱や、そうした場自身のルール生成的な働きを後期では強調しました。

「粘り強く普及・啓発すればいいだろう」という声も聞こえますが、コミュニケーション場の特有な働きが思考対象となったわけで、「理論は自分がつくる、あとはまかせる」ではすまないことがあるということでしょう。実際後者のようなルール生成的な働きは、真正な科学理論をして、コミュニケーション場の末端において、似ても似つかない姿にゆがめられ詐欺商売に加担させることさえあるという意味では座視できないものがあるでしょう。対処療法だけではなく、間接的に見えてもオープンな社会に向けての諸々の取りくみが必要になります。むしろそちらのほうが大事かなと思います。

個々人の心は、しかしながらある程度の固有性が尊重されるべきで、野心・願望・夢・心情といったものを逐一全世界に発表する必要はないものだと思います。そこで存在論の出番というわけで、世の中にはもとより共有困難であるが大事な分野が主体の側に存在するということを知っておくことは無駄にはならないはずです。多くの人はそういうことを誰にでも明かすのではなくて選んでいるでしょうが、「オープンだから」といってやたらと大勢に向かって心情を吐露したりするのは非常に危険なことだと私は思っています(本来そういうふうにはなっていないのだから)。主張は外に出したほうがいいが、心情はやたらと表に出すものではないです。

存在論と認識論はほぼ主体に関することで1次的な素材は自身の経験・体験となり、コミュニケーション場が持ち出されてくると、主たる対象は、言葉や情報というものに移ります。

どれが欠けても成り立たないので、どれを読んでも面白いと思います。コミュニケーション場について考察する場合、逆説的なことではありますが、簡単なものでいいので、正しい理論、正しい命題を例として1つおさえておいたり、存在論だとか認識論だとかを少し頭に流し込んでおいてから考え始めるのがよいと思います。コミュニケーション場で攪乱されうるからといって、相対性理論がどこそこの居酒屋では否定され、それが妥当などということはありません。正しいとか適切な理論は、そこで保証されている意味で正しく適切であるのです(特に論理とか数といった事柄自体が否定されることは不可能なので攪乱にも限度がある)。特にこのことが重要なのは、自身の心といった固有な事柄がコミュニケーション場で否定されるなんてことは、初めからあり得ないということを知るためです。伝わらないというのと、存在しないとして否定されるのとは、雲泥の差です。気持ちはなかなか伝わらないでしょうが、それによって否定されるものは何もありません。

コミュニケーション場だけを重視すると起きるのが、対話を偏重してしまうことで、時には固有な時間を持って充電しなければならないときもあるということを忘れがちになります。

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