5/15

緊急事態宣言が一部解除され、否応なく経済の正常化が近づいてきました。これは世界的傾向ですから、遅かれ早かれ来るべきものです。

地球規模で、住民の外出抑制、制限がなされるという、人類が何度も体験したことがないはずの事態を、私たちは経験したことになります。

直接的な接触を抑制されるという事態になって改めて思い起こすのは、今という時代が、いかに体験、直接的体験を重視する文化にシフトしてきたかということです。

20年前、30年前は全く違いました。「自分たちは巨大なシミュレーションの中に、あるいは仮想現実の中に生きていて、そこに安住していて、そのことに自ら気づいている私(論者)は時代の賢者であり、人々は、論者のおかけでそのことに気づきつつ、行動は一切変えず、仮想現実に安住するべきである」といった主張が平気で流布していました。要するに、自分は何もしないけれども、偉そうには語りたい、そのような人がたくさんいたわけです。現実には触れなくてよい、すべては仮想なのだから、と。頭が悪い人間もいるものだと、当時から呆れておりました。

現状の無力な肯定と無力さに反比例した奇妙なプライド。これは時のエスタブリッシュメント(在来メディア、娯楽産業、それにぶらさがる論者)の気分そのものであったのでしょう。

今、このようなことをおおっぴらに言う人間はほとんどいなくなりましたが、それでも時々思います。彼らは、流行ではなくなったから黙るようになっただけで、内心は全然納得してないのではないだろうかと。もし、コロナ外出抑制が続けば、「この世は仮想ゲーム空間であり、私こそが導きの賢者」、などと口走る人々が現れるのかもしれない、などと思います。ですが、現実の人間社会は、影もあれば悲しみもある、だからこそ喜びもある、そのような世界です。仮想の賢者などで対処はできますまい。

今日紹介するのは、”immediatism”、その名の通り、直接的なものについてのエッセイ朗読に曲をつけたものです。90年半ばには、これは、どこか一部の文化的なグループの主張であったのだと思います。しかし、たぶん、エスタブリッシュメントの外にあって、自立した精神に共有された気分であったのだろうと推測しています。私もそのような考えの人間であるからです。

「私たちはメディアに支配されない、私たちがメディアであり、発信者である」といった言葉は、このインターネット時代では、わざわざ述べるまでもないほどに、当然極まりないことです。もし在来型メディアというものが、生き残るつもりがあるのなら、それは、発信者の一つに過ぎない自己を受入れ、多数の発信者であるようなグループに対して情報を発信するものでなければなりません。しかし、彼らにはそれはできなかった。前回のアメリカ大統領選挙はそれを証明しました。あとは砕かれるのみということになったわけです。

もっとも個人レベルの発信者たちも、独占的な発信者でありたがる在来型メディアのようなメンタリティでは、きっと打ち砕かれてしまうはずです。

曲についていいますと、5分くらいからのギターソロが素晴らしいです。おそらくアサシンズ・ドリームという名前がついています。

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

This blog is kept spam free by WP-SpamFree.