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児童・生徒にとっていじめと体罰とでどちらが深刻か。私はいじめだと思います。体罰というのは、根っからろくでもない教師でない限り、すぐに教室以外の人の知るところとなります。教師への親御さんの目もあります。殴られてあざができたら、病院にいって診断書をもらうなり、程度がひどければ警察に訴え出たっていいでしょう。

いじめというのはそうではありません。制御するものがないところで進行します。標的になった人間は、概して誰に助けを求めたらいいか分からないという状況に置かれます。

私の答えはだれから聞かれても同じです。教師は、「児童生徒が勉強をするために」(※遊びにきている連中は二の次でよし・休み時間に遊べばよい!)、教室の秩序を維持し、児童生徒が勉強をできる環境を維持する責任があり、彼らを目に見えない暴力から守る責任があり、したがって、そのために必要と思う手段を自らの責任において実行できる権限を持たねばなりません。この権限は、責任に対応するもので、この権限の行使は、当然に報告する責任を伴います。この手段から、物理的打撃の類を除くのであれば、それに見合う手段を教師は持つべきです。登校停止等の処分を教師が自分の責任において下せるくらいでないと、安心して勉強できる環境にはなかなかならないでしょう。大切なことは、体罰自体があるかないかではなく、児童生徒が安心して勉強することができる状態かどうかです。

教師にはつまり責任に見合った権限と手段が必要ですし、それはかつてのように不文律によるのではなく、制度的に保証されたものでなくてはならないでしょう。

教師が人間として完全でないのは、当然のことです。それは責任を回避する理由にはなりません。教室の中で、責任と権限を持つべきなのは誰でしょうか? 一人ひとりの児童生徒だとでも言うつもりでしょうか? もちろんそんなわけはありません。暴漢が現れたらその教師が何らかの処置を下さなければならないのです。

要するに、教師は児童生徒の勉強あるいは運動などを十分に発達させるためという目的のためには、今よりも現場の権限を与えられて然るべきだと思います(給与水準の維持のためにはさしあたり不要)。

教師が秩序を保てず、いじめは野放し、「うまくいっていると思っていた」「相談はされたがいじめとまでは思わなかった」というような教室に、私だったらいたくありません。シュタイナー教育の講演を聞いたとき印象に残ったのは、教師が自分の判断に不安を時に感じつつも、教師として振る舞うという姿勢で、こういう姿勢のあるところはいいなと思いました。ある意味では教師は、謙虚な人間であっても時に権威ある者として振る舞わざるを得ない職業ですから、大変な仕事だと思います。しかし、それはやらなければならない義務だと思います。だからこそ、彼らには現場指揮の権限が必要なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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